ボイストレーニングというと、高音域発声がよく取り上げられます。それは、高音域発声に悩みを抱える方が多く、また、高音域発声が低音域発声に比べて華やかであるからでしょう。
しかし、一見地味な低音域を練習することは正しい発声法を習得するのに大いなる効果を発揮します。また、低音域発声を正しく行えるようにすることは、ミックスボイス習得に必要不可欠な事項です。
以下の図をご覧ください。これは、平野実先生の論文「歌声の調節機構」に掲載されていたテノール歌手が母音「ア」にて3オクターブ上昇音階を発声した際の輪状甲状筋、側筋、内側甲状披裂筋の働きを表わしたグラフです。(※平野先生の論文では、上から三番目のグラフが「声帯筋」と記載されておりましたが、内容から「内側甲状披裂筋」を示しているものと判断し、甲状披裂筋と修正させていただいております。)
低音域、つまり声区「チェストボイス」は大まかに右側3分の1部分が該当しますが、ピッチ降下に従い、前筋、側筋、甲状披裂筋の働きが小さくなっています。これは、ピッチをつかさどる輪状甲状筋(前筋)の弛緩とともに、2つの拮抗筋も同様に弛緩したからだと考えられます。
甲状披裂筋は、前筋の声帯伸展の働きを受けて、声帯の形状維持のために拮抗筋として機能します。したがって、甲状披裂筋の弛緩は、輪状甲状筋の弛緩に直接影響を受けたものと考えられます。一方の側筋は、前筋の機能時、声帯伸展における拮抗筋として作用する後筋の外転に対する拮抗筋として内転作用を起こします。したがって、側筋の弛緩は、輪状甲状筋の弛緩に間接的に影響を受けたものと考えられます。
このような経緯より、チェストボイス声区においては輪状甲状筋の弛緩に伴い、側筋、甲状披裂筋も弛緩することが分かります。では、チェストボイスボイス声区において積極的に機能する筋肉は存在しないのでしょうか?実は、豊かな低音を発声するにあたり、2つの筋肉が積極的に作用するのではないかと推測されています。その2つの筋肉が胸骨甲状筋と外側甲状披裂筋です。
チェストボイス声区において積極的に作用する・すべき筋肉
胸骨甲状筋
フレデリック・フースラーは、著書「うたうこと」の中で、「低(中)音域においては、胸骨甲状筋を機能させることで、深い響きの声を発することができ、胸骨甲状筋を機能させる声こそ、声帯閉鎖を練習するのに最も基本的で危険の少ない声」として紹介しています。
また、Erickson,Dらによる1983年の論文によると、EMG信号という筋肉の働きを測定する試験の結果から、中音域から低音域へとピッチを下げる際、この胸骨甲状筋が機能する筋肉として候補に挙げられるとされています。
さらに、Sonninen.Aによる1956年発表の論文では、胸骨甲状筋の収縮により、ピッチの下降が可能とされています。
外側甲状披裂筋(外筋)
スンドメリは、1979年の論文にて、ピッチ上昇においては歌手とそうでない人との間の工程に差がある一方、ピッチ下降にはほとんど差が無いことに着目し、外側甲状披裂筋がピッチ降下時に機能しているのではないかと仮説を立てました。これは、外側甲状披裂筋が声門閉鎖の機能があること、そして、生理的機能を有する(つまり、歌の訓練を受けていない人でも生得的に充分に機能させられる)ことにより着目されました。
このように、チェストボイス声区発声時に生理的に機能する筋肉として外側甲状披裂筋(外筋)、機能させるべき筋肉として胸骨甲状筋が挙げられています。
しかし、エッジボイス声区の発声において、まず重要なことは「力をぬくこと」です。そして、このチェストボイス声区において「一定水準の無駄な力み解消」がなされたかどうかの指標としてエッジボイスの発声の可否が挙げられます。